手術…そのとき妻と子は?  森脇 一(町田市)

 「親身になって悩みを聞いてくれる家族や友人がいますか?」第5回の考心会総会でのアンケートの一部である。私は躊躇せずに「はい」にマルをつけたが、ほんとうにいるだろうか?……と後で考えた。女房には意外に悩みは口に出来ないものである。
 真鶴の海で心筋梗塞で倒れ、小田原の病院に運ばれて1カ月点滴と薬の服用でふらつきながら退院した時も、家で死にたいと祈りながらロマンスカーに付き添われて乗っていた。女房は「医師がもう大丈夫と判断して今日の退院となったんだから、心配のしすぎよ」と言ったが、私にはそうは思わなかった。
 かなり危険な状態であることは自覚できた。私は帰宅すると親友の数人に手紙を書いた。今の自覚症状と死を覚悟している内容のようなものだった。
 数日して親友の1人から電話があった。「生まれたら誰だって死ぬんだから、仕方ないんじゃない」親友は一休禅師和尚のようなことを言った。私はショックを受けたが、生きる反発にもなった。
 それにしてもアンケートの回答は「いいえ」が正しかった。人間は死がはっきりした形で迫ってこなければ自分の中で処理してしまうだろう。相談された相手もどうにかできる問題ではないからだ。
 「手術はしないことに決めました」カテーテル検査を担当した医師は嘘でしょう…という表情をされた。冠動脈の血管が詰まっているのだから、このまま放置すれば死の危険は理解していた。
 「何を考えているの…」妻が悲鳴のような声を上げた。娘からも息子からも、同じ思いが伝わってきた。家族にしてみれば、この有名大学病院で最高レベルの手術を受けることになれば、最悪の結果になっても諦めのよりどころになることは確かだ。
 その日以降、妻も子も手術の話はしなくなった。私は手術をあきらめたわけではなかった。いのちを張った人生最後の賭けをするとなれば、それなりに自分が納得する選択肢がある筈だった。
 私は妻が集めた心臓手術に関する新聞の切り抜き記事を、もう一度読み返してみた。2か月経ってようやく決断する方向性が見えてきたような気がした。
 「60歳も過ぎれば、医学の知識はなくても、本物を見分ける目は備わっているものだよ。すでに病院や医師は患者が選ぶ時代に入っているんだ」私が誇らしげに妻と子に話したのは、大和成和病院の南淵先生からバイパス手術を受けた後だった。(2001年7月8日「考心8号」に寄稿)