冠状動脈バイパス手術と私  南淵明宏(大和成和病院心臓外科部長)

2002年3月11日

 心臓が止まる。心臓の表面には色合いも良く、つなぎがいのある冠状動脈が会釈している。さあ準備が整った。ここからは私にとって、ただただ4倍の拡大鏡(ルーペ)の視野で繰り広げられるドラマを眺めるだけである。持針器が糸つきの針を自在に操り、口をあけた冠状動脈とグラフトを縫い合わせていく。自分の手に何かが乗り移ったようだ。手だけではない、体全身というべきか。時折、脚も勝手に動いて覗き込む方向が変わる。術者である私はただただグラフトが縫い終わるのを見守るだけに過ぎない。職人技とはまさにこれをいうのかも知れない。
 熟練工や工芸細工の分野でいわゆる“職人さん”といわれる人は皆このような“瞬間”を経験しながら“仕事”をしていると思う。手の動き、体の感覚、工程の途中にある状況判断もふくめ、それはまさに“無我”、“無意識”つまり完全自動制御である。少なくとも右脳の理性的認識下にはない。このようにして、私にとってはなんの苦労もなく、「俺たちが勝手にやるからおまえそこでみていろ!」という感じで冠状動脈バイパス手術のもっとも重要な部分は終わってしまうのである。なんと楽ちんな仕事であろうか。
 ところがいつもそうとは限らない。縫っているときに冠状動脈が裂けてしまうこともある。糸が絡まって収集がつかなくなることもある。稀にそのような不測の事態、つまりアクシデントが発生して、そしてはじめて目がさめるようにこんどは自我で手術を進めなくてはならなくなる。自動操縦から手動運転にきりかわるといったところか。患者さんによってはあますところなくボロボロの血管の状態であることもある。そんな場合、縫い付けるところがない。手術する側にとって“非常に好ましくない”これらの状況は、ものいわぬ患者さんの心臓自身の、なにか主張めいたものであるように思える。あるいは患者さんを見守る背後霊、守護霊の私に対するお叱りか。
 手術を執刀するのに際して恐怖心はある。というより常に恐怖心にさいなまれている。恐怖心があるからまともな手術ができるのかもしれない、とさえ思っている。毎日が神仏への祈願である。手術がある日の私の行動は、朝起きて病院にくる道すがらから手術がはじまるまで“ゲン”をかつぐ動作で埋め尽くされている。そうなるとなおのこと手術がはじまって勝手に動いてくれる自分の“手”がたよりだ。重症な患者さんのときは、はらはらどきどきして手術がおわるのを見守ることになる。
 手術の時に感じる恐怖心とは具体的になにかというと、正直に言って「人殺しになるかもしれない。」という恐怖心だ。稀ではあるが心臓手術によって患者さんを死に至らしめることがある。「手術しなければどの道、患者さんは亡くなっていたんだ・・・云々」、自分が引導を渡したと思いたくないからあれこれ理由を探し出す。医者とは誰しもめいめいがそれぞれの“手法”をあみだして患者さんが死んでしまった際の“苦界浄土”から逃げ出そうとするのではないだろうか。東大を卒業したり大学教授になっておけばそのような苦労はなくなるかもしれない。
 そんなふうな「患者さんが亡くなってもぜったいに俺のせいじゃない。」という環境で執刀する外科医というのは、一見らくちんそうに見えるが、実はとてもかわいそうだ。なんというか、手術の醍醐味というか、困難な手術をやり終えたときの充実感というか、自分を誉めてやりたい気持ちというか、そのような“絶頂感”を一生持たずに終えるだろうから。
 そう思うと、自分の人生は充実しているのではないか。地球が消滅するまであと10億年しかないらしいが、それまでに輪廻転生を繰り返し何度も生まれ変わることであろうか。しかし、心臓外科医である今生(こんじょう)以上に充実した人生を味わうことがあるだろうか。今の私には疑問だ。