執刀医の恐怖  南淵明宏(大和成和病院心臓外科部長)

2002年7月1日

 先日、大学病院の医師2名が、心臓外科手術における診療行為上の責任を問われ逮捕された。詳しい経緯は知るすべもないが、元来「患者のために良かれ」と医師が思って行われる診療行為に対する今回の司直の判断は、同じ医師、しかも同じ心臓外科医療に生きる私にとって、誠に衝撃的な出来事である。
 なぜなら「自分の手術で患者さんが亡くなるかもしれない」という恐怖に打ち震えながら毎日人様の心臓にメスを入れる私にとって、まさに「明日はわが身」と感じざるを得ない。
 手術は患者にとって恐怖以外の何者でもないだろうが、執刀医にとっても恐怖である。ヒトの臓器の構造は概念的には同じでも位置や外観、強度などは患者によって様様であり、2人として同じ患者はいない。しかし、手術はすべての患者が同じ設計図の製品であるかのような、乱暴な仮定のもとに行なわれている。症例を重ねることにより、様様なバリエーションに対処する術を会得していくのであるが、毎日の手術が「出たとこ勝負」だ。もちろん、犯してはいけない人為的ミスが生じるかも知れない。いつの手術でも、自分の生活を失う危険性を自覚しながら執刀している。ならば手術という医療行為は執刀医にとっても「賭け」である。
 先日も冠状動脈バイパス手術の手術中、血管を移植しようと予定した冠状動脈が心臓の表面に見当たらなかった。不安とあせりがよけいに心の目を曇らせる。動揺する自分に打ち勝つことにより、目的とする血管は目の前に現れた。
 また過日は、大動脈弁置換術の際、心臓の怒りに触れた。人工心肺離脱直後に大動脈周囲からの大出血が発生した。 なんとか“祈り”が通じ、心臓様の“お怒り”を静め、止血しおうせたが、天恵に救われたとしか言いようがない。
 心臓手術では、人工心肺を用いると時として理不尽にも脳梗塞や脳出血が起って脳障害が生じることも広く知られている。
 この10年間に1500人の心臓手術を執刀している私でもこういった恐怖感は消し去ることができない。未熟さゆえのものか。
 いや、一般に外科医の日常は、実は、恐怖に満たされている。というよりも、「恐怖で満たされているべきである」と私は考える。
 なぜなら、こういった執刀医の恐怖心こそが手術を成功に導いている。恐怖ゆえに不断の集中力が生まれ、惨事を逃れたい一心で難事を打ち負かす闘志が心胆に湧き上がる。
 医学生のころ誰しも、人命を預かる医師と言う職業にみな等しく畏敬の念を感じ、同時に「自分の医療行為で人を殺めてしまう可能性」に恐れおののく段階がある。その後の修練は、この「恐怖」に正面から打ち勝つ戦闘的な人格を医師たちに植え付けるべきなのだが、特殊な環境、つまり実体のない権威を盲信し迎合する社会でスポイルされることにより「恐怖」がいつしか忘れ去られてしまうのではないか。
 人は権威や威容にひれ伏すかも知れない。が、日常私が対峙する“心臓”はいつの時でも誰に対してでも、常にフェア―に反応してくれる。病院の大きさや執刀医の肩書きなど、全く気にしないのだ。
 この本質は、わが国の医学教育機関で正しく伝授されているのであろうか。